ディミトリは部屋の中を物色しはじめた。シンイェンが子供なので興味を無くしたのであろう。 それよりも手がかりを探すことを優先したのだ。『お前の名前は?』『ワカモリ・タダヤス』『そう、タダヤスね……』 この部屋には目ぼしい物が無い事を悟ると出ていこうとした。『ふね おりる』『分かった』 ディミトリが言うとシンイェンは大人しく付いてきた。もっとも、ディミトリのシャツの裾を掴んだままだ。 もっとも、彼女には他の選択肢が無い。ここでディミトリに逸れると、嫌な思いをしなければならないと悟ったのだ。 彼女の今後はアオイと相談して決める事にした。警察に頼めない以上は密出国させる事になるが手立てが不明だ。 ディミトリは道すがら倒れている男たちの身体を調べ回った。武器や身分証を持っている袋に入れる為だ。 後でコイツラの背景を調べるのに必要だ。チャイカが逃げた以上は小さな手がかりでも欲しかったのだ。 チャイカの話から中国系の連中がクラックコアを施術したのは分かった。後はどうやったのかと戻れるのかが知りたかった。 それと自分の身体の在り処だ。(金を掻っ攫ったのなら元の身体に戻らないと楽しめないしな……) 自分を狙う理由が分かって心のモヤが晴れた気分だ。 次は中国系の連中をとっちめる必要がある。その為の下準備を始めるつもりだった。 シンイェンを連れて食堂に行くと全員机の下に潜っていた。銃撃戦が始まったので跳弾を避けるためだろう。 外国ではよく見る反応だ。 銃撃戦の中でポケーと突っ立ているのは日本人ぐらいだ。生活の中に銃が存在しないので仕方が無い面もある。『この中に船長は居るか?』 ディミトリが英語で尋ねると、一人の男が立ち上がった。他の者たちはディミトリを注視していた。 拳銃を腰の位置で構えたまま彼に向ける。銃に気が付いた船長は小さく手を上げた。『俺がそうだ』『密輸をやってた連中の仲間か?』 ディミトリは少しホッとした。密輸の仲間なら全員を殺るつもりだったからだ。憂いを残すのは後々トラブルになる。 だが、全員を殺るには弾数が少ないのが心配だったのだ。『俺は違う。 航海士が連中とつるんでいたんだよ』『そうか、あの連中は全員始末した』 ディミトリの言葉に食堂の船員たちはザワついた。 シンイェンはディミトリと船員たちを見比べていた。
車の中。 モロモフ号を下船したディミトリとシンイェンはアカリが運転する車に乗り込んだ。 見知らぬ二人に怯えているのか、シンイェンはディミトリのシャツを掴んだままだった。『ふたり なかま』『……』 ディミトリがそう言うと、シンイェンは二人に軽く会釈をした。「え、若森くんは中国語が出来るんだ」 アカリがビックリした様子で話し掛けてきた。彼女はディミトリの事をヤンチャ坊主だと思っていたのであろう。「簡単な単語を並べることしか出来ないけどね……」「それでも凄いよ。 私はアカリ。 宜しくね!」「私はアオイよ……」『林欣妍(リン・シン イェン)よ。 どうぞ宜しくお願いします』「彼女は宜しくと言っている」 スマートフォンの翻訳アプリを使えば、ある程度の意思疎通は可能だ。 だが、自分で喋ることが出来るのとは違う話だ。『ふたり しまい おまえ くらす』 そう言うとシンイェンは頷いていた。彼女たちが姉妹で、これからシンイェンの面倒を見てくれると理解したようだ。「これから彼女の面倒を見てやってくれ……」「え?」 アオイが戸惑ったような表情を見せた。どうやら助け出した後でどうするのかを考えていなかったようだ。「え…… って、お前が助けろと言うから助け出したんだじゃないか……」 困惑するアオイにディミトリが憮然として言った。 元々、助ける気など無かったので、彼女を故国に返す手立てなど考えてもいなかったのだ。 このまま押し付けられても子供の面倒など見ていられない。「それに中学生の小僧にどうしろと言うんだよ」「……」 都合の良い時には小僧の振りが出来る。中々、便利な立ち場だとディミトリは思っていた。「分かった…… とりあえずは私の部屋に連れて行く……」 アオイはディミトリの言うことも尤もだと思い、自分の家に連れて行くことにしたようだ。 シンイェンの方をちらりと見て、服を買ってあげないようと考えた。粗末な薄汚れたワンピースのままなのだ。「ああ、彼女の親の事や、拉致された経緯などを聞き出せば良い」 その上で、今後どうするか考えれば良いはずだ。 シンイェンの親が警察を頼りたければそうするし、そうでなければ違う方法で帰す手段を考える。「え? 親が警察を頼らない事ってあるの?」「犯罪組織同士のイザコザで誘拐されたって線も有るんだよ……」
アオイのマンション。 アオイは郊外のマンションを借りていたようだ。引っ越しを急に決めたので、不動産屋に選んでもらったらしい。 四人はひとまず部屋の中に入った。今後のことを話し合う為だ。「広くて明るい良い部屋だね」「ここしか開いていなかったのよ……」「3階建ての三階か……」 ベランダの窓から外を見ながらディミトリが呟いた。「ん? 部屋は良くないの?」「空き巣が一番狙いやすい部屋なんだよ」「そうなの?」「ああ、適度な高さだから住人が窓の鍵を掛けない事が多いせいなのさ」「君は何でも良く知っているのね……」「ネットで読んだだけで、全て知っているつもりのネット弁慶さ」 ディミトリはそう言いながら笑った。もちろん、押し込み強盗をした経験があるのは内緒だった。「んーーー、これが使えると思う……」 アカリが翻訳アプリを動作させてみた。携帯に向かって語りかけてアプリ側で翻訳して音声にしてくれるタイプのものだ。 港から帰ってくる間に、運転をアオイに替わって貰ってから探していたらしい。「こんにちわ」『你好(ニーハオ)』 流暢な中国語が携帯電話から返ってきた。話し合いが捗りそうな予感がしていた。「俺の片言中国語よりはマシだな……」 アプリの翻訳の様子を見たディミトリは、そう呟くと早速シンイェンに質問してみた。『これなら何とかいけるかもしれない……』『貴方の下手な中国語よりマシね』『それ酷い……』『冗談。 助けてくれてありがとう』『どう致しまして……』 シンイェンの表情が明るくなった。意思の疎通が出来るのが嬉しいのだろう。(すげぇ…… 便利な物だな……) ディミトリは技術の進歩には凄いものがあると感じてしまっていた。 所々、おかしい翻訳も有る気がするが、それでも何も出来ない寄りは遥かにマシだ。『貴方は日本の兵隊で特殊部隊か何かなの?』『いや、日本の中学生で帰宅部隊に所属している』『変なの…… クスクス』 シンイェンがケラケラと笑いだした。アオイやアカリも笑っていた。『シンイェンは何処に住んでいるの?』『香港』『親の商売は?』『マフィア』『え?』 ディミトリは思わず携帯を見返した。翻訳アプリが間違えているのではないかと思ったからだ。『マフィアだよ? 日本の盗品を中国で売っていると言っていた』 彼女自身は貿易商
『ところで何で日本にいるんだ?』 シンイェンは香港に住んで居たはずだ。ところが日本の港に停めてある船の中に居たのが解せなかったのだ。『日本の遊園地に遊びに来ていたのよ』『ああ、それでなのか……』 日本に来て気が緩んだ所を拐ったのだろう。 普通、この手の人質は大事にされる物だ。だが、彼女がぞんざいに扱われていたのを見ると、ロシア系の連中は誘拐とは無関係だったのだろう。 帰りの道中で他にも拐われた者は居ないと言っていた。シンイェンが予定外であったのだ。『君を親元に返したいんだが…… どうすれば良いの?』『電話を掛けさせて頂戴』『それは構わないが公衆電話を使ってくれ』『どうして?』『携帯電話は位置の特定が可能なんだよ』『……』『君のお父さんが警察に通報していると、俺達は面倒な立ち場になってしまうんだ』『……』『お兄さんもお姉さんも警察とは仲が悪いんだよ』『……』 シンイェンは部屋に居た三人を順番に見つめた。 香港でもそうだが、一般市民が銃を持っていることなど無い。しかも、彼らはこの手の事に手慣れているようだ。 彼女の拙い経験からも、普通の市民では無いことは明白だった。『分かった』 シンイェンは返事をした。彼らが敵では無いと理解できているだった。 何よりも先の見えない監禁生活から開放してくれた。彼女にとっては彼らは英雄なのだ。 アカリとアオイはシンイェンの服を調達しに出掛けていった。 ディミトリは彼女を連れて近くにあるコンビニやって来た。近所で公衆電話があるのはコンビニだけなのだ。 シンイェンに小銭を渡して国際電話の掛け方を教えてあげた。(公衆電話で国際電話が掛けられるとは知らなかったぜ……) 実を言うとアオイに聞くまで知らなかったのだ。百円単位なのでテレホンカードを用意しないといけないのが面倒だった。『済まないが録音させて貰うよ。 それから余り俺たちのことを詳しく話さないで欲しいんだ……』 電話する彼女の会話を録音する事にしていた。ヤバそうだったら逃げる為だ。 ディミトリは中国語が片言で分かると言っても無理がある。詳しい部分は後で翻訳ソフトで聞こうと考えていたのだ。『わかったわ……』 シンイェンは教えられた通りに電話を掛けた。相手は直ぐに出たようだ。ディミトリはそっぽを向いて聞かない振りをしていた。 電話
『なんて事だ…… ツライ目に合わせて申し訳ない。 日本なら大丈夫だと思ってたんだよ』『秦天佑(シン・チンヨウ)はお父さんが約束を守らないのが悪いと言ってた……』『約束も何も分前の増額を彼らが勝手に決めたんだよ。 言うことを聞くわけにはいかなかったんだ……』『……』『その後、直ぐに私を誘拐した犯人たちはロシア人たちに捕まったの』 シンイェンたちを連れ去って、自分たちのアジトに連れて行ったらしい。そこから香港に脅迫電話を掛けていたのだろう。 誤算は自分たちが誘拐されるターゲットにされてしまっていた事だ。 シンイェンを拐った事を知らなかったロシア人たちが、アジトを襲撃して全員を拐ったのだ。『それで連絡が付かなくなったのか!』 父親は交渉の最中に連絡が取れなくなり焦っていたようだった。『ええ。 彼らのリーダー以外は直ぐに殺されたみたい』『誘拐犯が誘拐されるなんて思いつきもしなかった……』『赤毛のロシア人だった……』『なんて名前の奴だ?』『皆はチャイカって呼んでいた』『チャイコフスキーか!』『やっぱり、知り合いなの?』 どうやら父親も知っているようだ。彼が自分の事を知っている風だったので不思議だったらしい。『私を助けてくれた日本の少年の事も知っていたみたいよ』『日本の少年?』『ロシア人は、その日本の少年の事を聞き出す為にリーダーを拷問に掛けていた』『見せられたのか!』『ええ、私の目の前で彼が死ぬまで続けていた』 誘拐犯を誘拐した理由はクラックコアの真相を聞き出す為だったらしい。 彼女に拷問の様子を見せたのはチャイカの残虐な性癖だ。さぞや満足したに違いない。 対峙した時に自信たっぷりだったのは、リーダーから詳細を聞き出していたからだ。 片言の中国語でも何が行われたのかディミトリにも理解は出来た。『その日本の少年がお前を助けてくれたのか……』『ええ、やたらと闘いに慣れている日本の少年』『兵士とか警察じゃなくて?』『私の代わりに変態どもを皆殺しにしてくれたわ』 シンイェンは憮然として答えた。 彼女が泣かなかった理由が理解できた。子供には過酷な行為を強いられた来たのだ。 心を閉ざして感情を殺すしか術が無かったのだ。『変態どもって…… なんかされたのか?』『……お尻が気持ち悪くてたまらない……』『……』 言葉に
コンビニからの帰り道。 シンイェンはコンビニで買って貰ったお菓子が気になるようだ。袋の中を時々眺めてニコニコしている。 きっと、身内と連絡が取れて気が緩み始めたに違いない。スキップしながら歩いているのが証拠だ。 一方、ディミトリは録音しておいたシンイェン親子の会話を翻訳ソフトを通して聞き直していた。 シンイェンの父親が警察に届けているか気になっていたからだ。 だが、父親は届け出はしなかったようだ。話の内容からして父親は黒社会と深い繋がりがあるらしい。 彼からすれば警察に届けても、まともに聞いて貰えないと考えたのかも知れない。(まあ、その辺はどうでも良い……) 娘の無事を喜んでいるようなので、直ぐに敵に廻るとは考え難かったのだ。(チャイカの本名を父親は知っているのか……) シンイェンの父親はチャイカを知っていた。ならばディミトリの事も知っているかもしれない。 その辺は彼に逢って話を聞き出そうと考えていた。ひょっとしたらクラックコアの詳しい話を聞ける可能性があるのだった。(チャイカは裏社会とコネ付けるのが上手いからな) きっと、同じ様な匂いに惹かれ合うんだろうと考え、ディミトリは鼻で笑ってしまった。 自分もそうだからだ。(つまり俺は中国の黒社会でも人気者って事なんだな……) そう考えると笑いがこみ上げて来てしまった。 世界中の犯罪組織を敵に回しているかも知れない状況に笑うしか無いと思っているのだ。 クスクス笑いながら歩いているとシンイェンが不思議そうな顔で見ていた。 アオイのマンションに到着すると、アオイとアカリの姉妹は先に帰っていた。そして、シンイェンを別室に連れ込み『カワイー』と言いながらシンイェンを着替えさせている。別室に運びきれ無かった着替えが部屋の大部分を占めていた。 ディミトリは所在なさげに居間で待たされた。その間も翻訳されたシンイェン親子の会話をチェックしていた。 着替えが済んで再び現れた彼女は愛らしい少女に変身していた。『おまえ かわいい』 ディミトリのお世辞にシンイェンは顔を赤くして照れていた。 シンイェンと父親との電話の内容をアオイたちに伝えた。「シンイェンのお父さんが明日には香港から来日するそうだ」「そうなの?」「ああ、その時に彼女を父親に渡してお終いだ」「良かったね」 姉妹は口々にシンイ
ディミトリの自宅。 ディミトリはアカリに車で送ってもらった。荷物が多かったせいだ。 自室に戻ったディミトリは、荷物の中身を勉強机の上に広げてみた。 モロモフ号で取得した武器はAK-47と弾薬。AK-47は結構使い込まれているのか全体的にサビが目立っていた。 手榴弾も一つあったので持ってきたが年代物だ。調べてみるとベトナム戦争時に米軍が使っていたマークⅡという奴みたいだ。(ちゃんと爆発するのか?) 自分が生まれる前の年代物を手にした時に出た感想だった。肝心な時に機能しない武器が、一番厄介な事は知っている。 傭兵時代にもRPGを打ち込んだら、爆発せずに標的の建屋を通り抜けてしまった事があった。もちろん、作戦は失敗で激怒した敵に追い回された経験があったのだ。(まあ、いいや。 脅しぐらいには使えるだろう) 手榴弾をバッグの中にしまい直した。 次はAK-47を分解掃除を始めた。元々、部品数が少なく手入れが容易なのがウリの武器だ。 装薬の燃えカスやら埃やらを拭い去って、グリースを塗ってやると見違えるように……には成らなかったが前よりはマシな状態にはなった。弾倉のガタツキが無くなったのが有り難いと思った。 サプレッサーはモデルガン用のを参考にして作成するつもりだ。(インターネットって便利だな……) 検索すると3Dモデルが出てきたのはビックリしたものだ。 アオイから好物の現金を返してもらった。半分近くはアオイ姉妹に上げたが、それでも一千万ちょいは手元に残っている。(よし、これで渡航費用は賄えるな……) これらを何処に隠すかを考える必要がある。また、燃えないゴミの日に出されたら敵わない。 後は中華の連中をどうにかしないといけない。彼らがクラックコアの施術をしたのは間違いなさそうだからだ。 元の身体に戻る方法も当然知っているに違いないからだ。 シンイェンに連れ込まれた場所が分からないかと聞いてみた。彼女は一旦中華系のアジトに連れ込まれて、そこからチャイカたちに捕まっていたのだ。(具体的な場所は知らないと言っていたな……) 日本には頻繁に来るらしいが、土地勘などは無いので分からないと言っていたのだ。 だが、潮の香りがしていたと言う事と、沢山の荷物があって天井が高かったと言っていた。 おそらくは倉庫であろう。(子供に期待しすぎてもしょうが
「そんな事より昨日泊まった大串さんの家にお礼を言わないと……」「いや、それは良いから…… 大串の部屋には窓から入ったから家族は知らないはずだよ?」 ディミトリは結構苦しい言い訳をしはじめた。常識で考えて窓から友人を入れることなど無いはずだからだ。 それでも、しらを切るしかなかった。何しろ大串はディミトリが外泊した事すら知らないはずなのだ。 電話掛けられると面倒な事になってしまう。「そうもいかないでしょ?」 祖母は相変わらず大串との付き合いを心良く思ってないようだ。 自分の孫は大串と遊ぶようになってから、出掛けてしまう事が多くなったように感じているのだ。(拙いな…… 話を合わせるように電話しておかないと……) 祖母はディミトリが抱えている厄介事を知らない。だから、自分の考えが及ぶ範囲で答えを決めつけてしまうのだ。 だから、先回りして根回ししておかないと、祖母に要らぬ心配をさせてしまう事になる。それは嫌だったのだ。(待てよ……) だが、ディミトリは或る事に気が付いた。 バタバタしていて深く考える暇が無かったが、落ち着いてみると彼らの相互関係に見落としがある事に気が付いたのだ。 突然、黙り込んでしまったディミトリに呆れて祖母は居間の方に行ってしまった。(シンイェンの話だと、俺が見た死体は中華系の幹部だったな……) クラックコアの名前を知っていたのだから、幹部なのは間違いないだろう。 そして、若森忠恭がディミトリ・ゴヴァノフである事も知っているに違いない。 これらは、下っ端が知っていても役に立たない情報だからだ。(中華系の連中は幹部が拐われたのを知っているのか…… だな) 拐われたのが分からなくとも、幹部との連絡が取れなくなったので慌てているはずだ。 商売柄、何らかのトラブルに巻き込まれたと考えるものだ。(だが、チャイカたちに拐われた事までは知らないだろうな……) チャイカたちが乗りだしたのを知っている考えたのは、アカリの拉致を阻止しようとした事からも分かる。 同時に、その幹部がシンイェンの父親と揉めていたのは知っているはずだった。 何人か動員してシンイェンたちを拐っているからだ。自分の手下とはいえ勝手に組織の者を動員する訳が無い。(俺ならシンイェンの父親を疑うな……) 揉めている最中に連絡が取れなくなれば、揉めた相手
(まあ、上書きされるのだから消えてしまうのだろうな……) 一家は全滅するわ脳は乗っ取られるわで、ワカモリタダヤスは地球上でもっともツイテナイ奴だったようだ。(しかし、見ず知らずの小僧に上書き保存されているのか……) 何だかパチモンのUSBメモリーに保存された、違法ソフトの気分に成ってきたのだった。「最近、偏頭痛が酷くないかね?」「ああ、失神してしまうぐらいに手酷いのが襲って来るよ」「その偏頭痛は副作用的なものだな」「……」「他人の脳に無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化しはじめとるんじゃ」「すまない。 人間に優しい言葉にしてくれ……」「脳の活動が活発になりすぎている。 なら良いか?」「ああ……」「やがて脳が肥大化しすぎて機能停止してしまうかも知れんな…… ふぇっふぇっふぇ……」 博士がそう言って力無く笑い声を出した。「そうか…… じゃあ、元に戻るには自分の身体が必要と言うことだな?」「……」 ディミトリは相手に書き込みが出来るのなら、元に戻すことも出来るのではないかと考えたのだ。 それで博士に質問してみたのだが彼は俯いて黙ったままだった。「?」「……」 ディミトリは振り返って博士を見た。項垂れている。明らかに様子がおかしい。「博士?」「……」 アオイが博士の身体を揺さぶってみたが反応は無い。 彼女は博士の首に指を当てて呟いた。「死んでるみたい……」 博士は椅子に座ったまま絶命していた。シートの下に血溜まりが見えている。 ヘリコプターが飛ぶ時の銃撃戦の弾丸が腹部に命中していたのだった。「くそっ、肝心なことを言わずに……」 一番聞きたかった所を言わずに博士は逝ってしまったようだ。 ディミトリの自分探しの旅は終わりそうに無かった。見知った天井。(うぅぅぅ…… ここはどこだ?) ディミトリは眩しそうに目を開けた。眩しいのは自分の頭上にある蛍光灯のせいのようだ。 だが、視界が定まらないのかグルグルと部屋が回っているような感覚に襲われている。いつもの既視感である。(くそ…… またかよ……) どうやら、お馴染みの大川病院であるようだ。 ディミトリはジャンたちが使っている産業廃棄物処理場にヘリコプターを着陸させた。ここなら無人であると思っていたのだが、考えていた通りに誰も居なかった。ヘリコ
ヘリコプターの中。 ディミトリたちを載せたヘリコプターは川沿いに飛行を続けていた。普段、見慣れないヘリコプターが低空飛行をする様子を、川沿いの人たちは驚きの顔を向けていた。 操縦席にディミトリ。後ろの席に博士とアオイが乗っていた。「なぁ博士。 クッラクコアって手術はどうやるんだ?」 ディミトリが後部座席に座っている博士に質問をした。何か話をして気を紛らわさないと痛みに負けそうだからだ。「簡単に言えば、人の脳に他人の記憶を書き込む手術のことだ」 博士が素っ気無く答えた。アオイが吃驚したような表情を浮かべていた。「そんな事を出来るわけが無いだろ」 ディミトリは笑いながら答えた。普通に考えて滑稽な話だからだ。「じゃあ、今のお前は何なんだ?」「……」 そう言われるとディミトリも困ってしまった。何しろ自分は東洋の見知らぬ少年の中に居るからだ。 魂とは何かと言われても哲学や医学の素養が無いディミトリには無理な話だ。「世間が知っている技術では出来ないというだけの一つの話に過ぎないんじゃよ」 そう言って博士はクックックッと笑った。 どうやら博士は他にも色々と問題のありそうな手術をした経験がありそうだ。(ドローンの盗聴装置の話みたいだな……) ロシアのGRUに居た友人の話で、ドローンを使った盗聴装置の話を聞いたことがある。 ドローンからレーザー光線を出し、それがガラスに当たった振幅を解析する事で、部屋の中の会話を盗み聴きするヤツだ。既に実用化されていて、今は人工衛星を使っての同種の装置を開発しているのだそうだ。 これ一つ取っても科学技術の進歩の凄まじさが伺えるようだ。(犬に埋め込んだ盗聴装置もあったしな……) 生物の代謝に伴うエネルギーを電源に使うタイプの盗聴装置だ。これだと長い期間動作が可能になる。 これが対人間相手の技術なら、その進歩はもっと凄いことになっていそうだとディミトリは思った。「科学の世界には、表に出てない技術が山のように有るもんだよ」「クラックコアもその一つなのか?」「もちろんだとも」 人間の記憶というのは神経細胞のシナプスに化学変化として蓄えられている。その神経細胞を構成するニューロンの回路としてネットワーク化される。無限とも言える変化の連続を、人間は記憶と呼んでいるのだ。 そして、記憶と記憶を結びつける行為を
ディミトリは操縦席に乗り込んだ。ここからは時間との勝負だ。(まず、バッテリースイッチを入れてスタートに必要なスイッチをONにして電源を入れる……) 昔教わった手順を思い出しながら、次々とスイッチを入れていった。その間も入り口の方から銃撃音が聞こえる。 銃弾を撃ち終えたアオイがヘリコプターに乗ってきた。博士もちゃっかり乗っかっている。「側面ドアを紐か何かで結んでおいて!」 容易に乗り込めないように紐で結んで固定させてしまうのだ。少しは時間が稼げる。(エンジンスタートスイッチを入れてスターターを回し空気圧縮開始……) 覚えている手順を口の中で反芻しながら計器を見つめていた。 ここで駄目なようだったら最初からやり直しだ。だが、その時間は無さそうだ。『くそっガキがあ~』『なめてんじゃねぇぞ!』 ドアを叩きながら怒鳴り声を上げているのが聞こえた。 どうやら、ディミトリが用意したスマートフォンのトラップが見破られたらしい。(確か、この回転数…… エンジン点火……) ジェットエンジン特有の甲高い音が響き始めた。エンジン始動は巧く行ったようだ。 銃声が聞こえ始めた。どうやら、鍵がかかっていると思い始めたのだろう。 ドアノブの周りに穴が空き始めた。「急げっ! 急げっ!」 ディミトリがエンジンの回転数を見ながら声を上げていた。(回れまわれ!) ヘリコプターのメインローターがゆっくりと回り始めた。そして、十秒もしない内に回転速度を早めていった。 やがて、ヒューイ独特の風切り音もし始める。『え?』『え?』『ヘリを動かしてるのか?』『ふっざけんじゃねぇぞぉぉぉぉ!』 ジャンたちも漸く自体が飲み込めたらしい。追い詰めたと思ったのにまさかの逃走手段を使っているのだ。(よしっ! イケる) ディミトリはコレクティレバーを引いた。これで揚力を制御して浮き上がるのだ。(ふふふ、俺ってばクールだぜ!) そして、ヘリコプターが浮き始めるのと、屋上のドアが開くのは同時のようだった。 中から複数の男たちが走り出しているのが見えた。中には銃を撃っているものも居た。カンッ、キンッ、ビシッ ヘリコプターの飛翔音に混じって異質な音が聞こえていた。サイドドアに付いている窓にヒビが入る。「ふっ、無駄だね!」 ディミトリはヘリコプターが浮き始めるのと同
「よさんかっ! わしが居るのが見えないのかっ!」 博士がジャンたちに向かって怒鳴った。しかし、彼らの返礼は銃弾だった。「ひぃー……」 博士は荷物の影に再び隠れた。「何故にわしを撃つんだ……」「もう必要が無くなったんだろ」 ディミトリは自分が本人である事を認めたので、博士の役割が終わったのだろうと推測したのだ。「貴重なサンプルなのだから殺すなと言っておいたのに……」 博士としては成功した理由を明らかにしたかったのだ。 だが、ジャンたちの目的が科学者特有の知的な好奇心では無いのは明白だ。 それは、ディミトリが握っている麻薬組織の巨額な資金なのだ。 クラックコアが有効な方法であると分かったのなら、今の反抗的なワカモリタダヤスに入っているディミトリは不要だ。 『従順なディミトリを再び作れば良い……』 こう、結論付けるのも無理は無い。 自分でもそうするとディミトリは考えるし、何より彼らが焦りだした理由のほうに興味があった。「くそっ逃げ道が無い!」 反撃しているが銃弾の残りも心細くなってきた。このままでは拙い事は確かだ。「おい…… 屋上にヘリコプターが有るぞ!」 博士が銃撃音に負けないように大声で教えた。「……」「分かった屋上に向かおう!」 ディミトリは暫し考え、騒音に負けないように怒鳴り返した。(操縦出来る奴であれば良いが……) 撃たれないように頭を低くして通路を素早く走り抜ける。その間も、走る後ろに向かって牽制の射撃は忘れない。こうすると、相手の追撃が鈍るのは経験済みだからだ。 博士も仕方無しに付いてきてるようだ。残ってもジャンたちに殺されると思っているのかも知れない。 ふと見ると撃たれて倒れている男がいた。ジャンの部下であろう。懐からスマートフォンが見えていた。(これを使わせてもらうか……) ディミトリはスマートフォンを手に持ち録画状態にした。自分の射撃する音を録音させる為だ。 そして、アプリを使って無限ループで再生するようセットした。これを使ってジャンたちの気を逸らすためだ。上手くすれば何分かの時間稼ぎが出来るはず。 ディミトリもヘリコプターのエンジンの掛け方ぐらいは知っている。そして、手順が厄介なのも知っていた。 何しろヘリコプターは車と違って直ぐには飛べない乗り物だ。どんなに巧くやっても、最短で二分はかか
「ぐあっ!」「うわっ!」 ジャンたちは急な発光に気を取られてしまった。 一方、コインを指に挟んだまま発火させた男は、親指と人差指が半分無くなってしまっていた。急激だったので指を放すタイミングを失ってしまっていたのであろう。「!」 ディミトリは相手が油断した空きを逃さなかった。反撃の開始だ。 相手のベルトに刺さっていた銃を奪い、ジャンたちに向かって連続で射撃した。正確に命中する必要は無い。相手の視界が回復する前に行動不能になってほしいだけだ。 弾丸はジャンや手下たちの腹に命中したようだった。 それから、後ろに居た男の頭を撃ち抜いた。椅子に座ったままだったので、顎の下から頭を撃ち抜くような感じだ。 男の脳みそが天井に向かって飛散していく。 室内に居た全員が倒れたすきに、ディミトリはナイフを使って手足の結束バンドを外した。それからジャンの手下たちのとどめを刺して回った。 ジャンは腹に当たっていたと思ったが逃げてしまっていた。中々に逃げ足が速い男だ。 しかし、ディミトリは追いかけようとはせずに博士の所に歩み寄った。 博士にも弾幕の一発が当たっているらしく肩から血を流していた。「俺の記憶とやらは何処にあるんだ?」「わ…… わしの研究所だ……」 いきなりの展開に腰が抜けてしまったのか、博士は床に座り込んだままだった。 荒事をするのは得意だが、されるのは苦手なタイプなのだろう。「研究所の何処だ?」「……」 博士は質問に黙り込んでしまった。ディミトリは博士の傍に座り込んで顔を覗き込んだ。だが、博士は黙ったままだ。 ディミトリは銃痕に指を入れてかき回してやった。博士の口から鋭い悲鳴があがる。「私の研究室にあるサーバーの中だ。 Q-UCAと書かれているハードディスクの中身がそうだ!」「ふん」 知りたいことを聞いたディミトリは立ち上がった。(さて、ジャンの奴を逃しちまった……) 自分の事を散々追いかけ回した彼には、是非とも銃弾を大量にプレゼントしてやりたかった。 だが、ここにはジャンの手下が沢山居るはずだ。相手のテリトリーで戦うような間抜けではない。「怖いお友達が来る前に逃げ出すか……」 ディミトリは倒れているアオイを助け起こして部屋を出ていった。 もちろん、博士も連れて行く事にした。聞きたいことが他にもあるからだ。 ディミ
「早くしないと君の魂はタダヤスから消えてしまうよ……」「……」 そう言うとニヤリと笑った。それでもディミトリは黙ったままだ。「自白剤を使いますか?」 ジャンは時間が惜しいので、さっさと自白させようと薬を使うことを提案してきた。 自白剤とは対象者を意識を朦朧とした状態にする為の薬剤だ。 人は意識が朦朧としてくると、質問者に抗することが出来なくなり、機械的に質問者の問いに答えるだけとなる。 しかし、副作用も酷く自白の中に対象者の妄想が含まれる場合も多いので信頼性が低くなってしまう。捜査機関などでは使われることが少ない薬剤だった。「そんな事をしたら折角の記憶が無くなるよ?」 博士が素っ気無く答えた。彼からすれば記憶に関する障害をもたらす薬品など論外なのだろう。 それは自分の研究成果が台無しになる事を意味する。金も研究成果も欲しい欲張りな性格なのだろう。「それに彼は拷問に対処するための訓練を受けているんだよ」 博士はディミトリの軍にいた時の経歴も掌握していた。「その女の子を痛めつけ給え、彼はきっと助けようとするだろう」 博士がアオイを指差した。恐らくモロモフ号の事も知っているのだろう。 アオイには特別な思い入れは無いが、自分の所為で他人が痛めつけられるのは気分の良い物では無いのは確かだ。 やっと出番が来たと思ったジャンはアオイをディミトリの前に連れてくる。 そしてジャンはおもむろにアオイを殴りつけた。殴られたアオイは転倒してしまう。「やめろっ!」「話す気になったかね?」 博士はニヤニヤしたまま聞いてくる。ジャンも手下たちも同様だった。「彼女は関係無いだろうがっ!」「相手のウィークポイントを責めるのが尋問のイロハだろ?」 そう言うとジャンはアオイの頬を再び殴りつけた。アオイの鼻から出る鼻血の量が増えてしまった。「分かった、分かった…… 教えるから辞めてくれ」 ディミトリが仕方がないので暗証番号を教えると伝えた。 ジャンと博士はお互いの顔を見てニヤリと笑った。 ジャンが手下に顎で指示をすると、手下はノートパソコンをディミトリの前に持ってきた。「手を動かせるようにしろ」 ノートパソコンを前にしたディミトリは言った。操作する為だ。「駄目だね。 お前さんの手癖の悪さはよく知ってるよ」 ジャンがニヤニヤしながら言った。「
「俺たちに任せてくれ! 三十分で吐かせて見せます!」「ああ、タップリ目に痛い目に合わせてやりますよ!」 部下たちが口々に言い募った。仲間を殺られたのが悔しいらしい。 それに、部下たちはディミトリの正体を知らないようだ。見た目が生意気な小僧に騙されているのだろう。「バカヤロー。 ぶん殴って白状する玉じゃねぇんだよ!」 ジャンは部下の方に向いて怒鳴った。 ディミトリは元兵士で拷問への対処法を熟知しているからだ。もちろん、限界が有るのだろうが、それを確かめるには膨大な時間を浪費しなくてはならなくなる。 ジャンはディミトリの正体を知っているので、無駄な時間は使いたくないと考えていたのだ。「あの女を連れてこい!」 部屋の外から女が一人連れて来られた。片腕を乱暴に掴まれて部屋の中に引き摺られるように入ってきた。 それはアオイだ。やはり捕まってしまっていたようだった。 アオイが連れてこられるのと一緒に初老の男性が入ってきた。「やあ、若森くん。 相変わらず元気そうだね」 彼はニコニコしながらディミトリに話しかけて来た。「君の活躍は色々と聞いてるよ」「……」「それともデュマと呼んだ方が馴染みが良いかね?」 彼はディミトリの渾名すら知っていた。「アンタ、誰?」 ディミトリは興味無さそうに聞いてみた。本当は興味津々だが、この相手に弱みを見せるのは拙いと感じているからだ。 情報の引き換えと同時に何を要求されるのか分かった物では無い。油断ならない相手だと判断したのであった。「私の名前は鶴ケ崎雄一郎(つるがさきゆういちろう)」 初老の男は長机の上にあるディミトリの私物を手に取って眺めながら答えた。「君の手術を担当した脳科学者さ……」 彼がディミトリに脳移植をした博士だったのだ。「君とは手術が終わった時に一度逢ってるんだが…… 覚えてないみたいだね」「……」 そう言ってニコッリと微笑んだ。ディミトリは黙ったままだった。本当に記憶に無いからだ。 だが、想定内であったのだろう。博士はニコニコとしている。ディミトリの反応を楽しんでいるようであった。「さて、君には質問が幾つか有るんだが……」 博士はディミトリの傍に立ち、見下ろしながら質問を始めた。「さて……」「聞く所によると君は麻薬組織の売上金。 百億ドル(約一兆円)を掻っさらったそうじ
何処かの倉庫。 ディミトリは倉庫と思われる場所に一人で居た。 その顔は腫れ上がっており、片目が巧く見えないようだった。口や鼻から出た血液は乾いて皮膚にへばり付いている。 恐らく仲間をやられた報復で、散々殴られていたようだ。(くそっ……) 気が付いたディミトリは腕を動かそうとした。だが、出来ないでもがいていた。 安物っぽいパイプ椅子に両手両足を拘束されていた。両手両足をそれぞれ別のパイプに拘束バンドで止められているのだ。 これでは解いて逃げ出すのに時間が掛かり過ぎてしまう。 彼の逃げ足が早いことを、灰色狼の連中は知っているのだろう。(身体が動かねぇな……) 部屋には中央に灯りが一つだけ点いていた。壁際に監視カメラがある。室内に見張りが居ないのはこれで監視しているのだろう。 入り口には長机が置かれてあり、その上にディミトリの私物が並べられている。 暫くすると入口のドアが開いて何人かの男たちが入ってきた。 ディミトリが意識を取り戻したのに気が付いたらしい。「コイツを殴るなって言ったろ?」 派手なシャツを着た男が、ディミトリの様子を見て怒鳴った。ディミトリが怪我をしているのが気に入らないらしい。「すいません……」「コイツにケンジを殺られたんで…… つい……」 何だか派手なシャツを着た男と、スーツ姿の男二人がやり取りをしている。 ケンジとは誰なのか分からないが、ディミトリが殺った奴の一人であるのは間違いない。 シャツの男がコイツラの頭目だろう。(じゃあ、コイツが張栄佑(ジャン・ロンヨウ)か……) ジャンは灰色狼の頭目だとケリアンが言っていた。そして、目的の為には手段を選ばない男だとも聞いている。 性格が冷酷で厄介な相手であるのは間違いない。「特に顔を殴るのは良くない……」 ジャンは座らされているディミトリの周りをゆっくりと歩きながら言った。ディミトリの怪我の具合を確認しているのだろう。 見た目は酷いが死ぬことは無さそうだ。 ジャンが歩く様子をディミトリは目で追いかけながら睨みつけていた。「もし記憶が飛んでいたら、今までの苦労が水の泡に成っちまうからな」 そう言って笑いながらディミトリの頭を掴んで自分に向けさせた。そして顔を近づけてディミトリの目を覗き込んだ。 まるで相手の深淵を汲み上げようとするような鋭い目つきだ。
その場に居たパチンコの客たちは、一瞬に呆気に取られてしまっていた。だが、直ぐに店内は悲鳴と怒号に包まれていく。「え?」「ええ!?」「ちょっ!」「ああーーーっ! 俺のドル箱に何をする!」 誰かが大声で喚いていた。それでも、彼らはパチンコのハンドルを握る手を緩めない。 リーチ(大当たりの前兆)が掛かるかも知れないからだ。緊急事態より眼の前にある台の去就の方が大事なのだろう。 普通の人とは感覚が違うのだからしょうがない。 そんな喧騒とは別に運転席でモゾモゾと動く影があった。「痛たたた……」 ディミトリだ。彼は無事だったようだ。すぐに自分の両手を握ったり開いたりして怪我の有無を確認していた。 足の無事を確かめようとして、顔が歪んでしまった。どうやら打ち所が悪い部分があったようだ。(ヤバイ…… 早く逃げないと……) ふと見るとディミトリは自分の銃の遊底が、引かれっぱなしになっているのに気がついた。弾丸を撃ち尽くしたのだ。 予備の弾倉も使い切っている。(コイツは何か得物を持ってないか……) 助手席で事切れている男の身体を触ってみた。すると男の懐にベレッタを見つけた。弾倉はフルに装填されている。 右手が銃床を握っているので取り出そうとしたのだろう。乗り込もうとした時に銃撃したのは正解だったようだ。 ディミトリは銃を奪い取ってから、予備の弾倉を探したが持っていなかった。(まあ良い。 これだけでも闘える……) そして、懐から狐のアイマスクを取り出して被った。(くそっ、玩具のアイマスクしか無いのかよ……) 本当は目出し帽で顔を隠したかった。だが、狐のアイマスクしか無かったのだ。 これはケリアンが手配してくれた車のシートポケットに入っていた物だ。恐らくシンウェイの物であろう。(無いよりマシか……) パチンコ店の至る所に監視カメラがあるのは承知している。それらの監視の目を誤魔化す必要が有るのだ。 これだけの大騒ぎを起こしたのだから、警察が乗り出すのは目に見えている。いずれバレるだろうが、今はまだ警察相手にする余裕が無い。時間稼ぎが目的だ。(時間を稼いで楽器ケースにでも隠れて外国に逃げるか……) ディミトリは足を少しだけ引き摺るように階段を下りていった。最早、痛みがどうのこうの言ってられない。 急がないと駐車場ビルから、奴らがすぐ